YKTM

アニメ感想・考察ブログ

ダーリン・イン・ザ・フランキス8話感想

ココロちゃんは私の母になってくれるかもしれない…。

そんな期待を抱かずにいられなかった8話感想です。

ダーリン・イン・ザ・フランキス8話「男の子×女の子」感想

世界観

見えないお世話係

ミクちゃんの口からポロッと出た、「掃除も他の洗濯みたいに見えないお手伝いさんがやってくれればいいのに」という言葉。よく考えたら怖くないですか…?

でもこれって学校と同じでなんですよね。子どもの頃、洗濯も料理も親が、または給食であれば給食のおばちゃんがやってくれていました。給食のおばちゃんに感謝の言葉を言いましょう、なんてアナウンスがあるくらいに子どもたちは給食を作ってくれる存在に無関心です。

ではなぜ学校でも掃除のみを自身で行うか。ひとつは公共性・協調性を育むためだそうです。パパのために自分を犠牲にして戦う公共性。そしてフランクスに乗るための協調性。それを育む目的で掃除のみは彼ら/彼女らに任されているのでしょう。協調性が崩れた今回のお話でこのセリフを言わせるとはさすがの脚本ですね。

そして、やはり彼らに親の影はありません。料理をしてくれるのも洗濯をしてくれるのも「見えないお世話係」。おそろしいですね。

登場人物

ヒロ(CODE:016)

ゼロツーといちゃいちゃしやがってこの。後述しますが、自分と相手が違う存在であることを認め、一歩大人になりました。しかし私は外見に引っ張られてヒロたちの精神年齢を高く見誤っていたのかもしれません。ゼロツーが笑った時に笑い返したヒロは、まさしく笑いかけられた時に反射で微笑み返す赤ん坊そのものでした。好きな子が笑ってくれて嬉しい、という笑みにしては無邪気すぎる。

ゼロツー(CODE:002)

かわいい。ヒロといちゃいちゃしたかっただけなのか。彼女が「人間らしく」と言うたびに一種の切なさを感じます。また、恐らく人為的に肉体を変化させられて生まれたヒロたちにそんな言葉を投げかける彼女の真意はどうなのでしょうか。どこまで彼女は世界の仕組みをしっているのか、にもよりそうですが。

感想

ひと昔前の性描写

これは1話を見た時からぼんやり思っていたのですが、このアニメ、セクハラの描写がひと昔前なんですよねえ。博士がナナさんの尻を触るくだりあたり、今回のドキドキ☆風呂のぞきあたり。しかるべき人が見たら怒り狂いそうです。

何のための描写か、と考えるとはっきりしたところはわかりませんが、性差を感じさせるためなのでしょうか。

死と生

死と生は表裏一体です。神話でも破壊の後に創造があります。

しかしコドモたちには常に死しか与えられていません。フランクスに乗ってパパのために戦え(そして散れ)という。彼女らは何も生み出すことがないのでしょうし、そもそも生み出す仕組みさえ知らずに死んでいくのかもしれません。

コドモらしくない

一遍に思春期となった13部隊にたいしてナナちゃんがかけた言葉です。いやらしいですね。26部隊がそうであったように、コドモたちは従順で個がなく、合理的な行動をとるべきなのでしょう。

コドモらしくなく、子どもらしい13部隊の行く先はどこなのでしょうか。

自分は誰かと違う人間である

ヒロたちは思春期を通して、やっと自分と他人が違う別個の存在であることに気が付きました。これはアイデンティティの形成に大きく影響します。専門で勉強していないのであまり自信はないのですが、確か子どもは最初、自分と他人を区別しません。自分は世界であり、世界は自分である。それが経験を通じて、自分と世界は別のものであると自覚します。他人は自分とは違うものの見方をし、感じ方をする。それは反面、自分はこういうものの見方をし、感じ方をすると自覚することでもあります。

アイデンティティを獲得すれば、相手を思いやる、という今回のヒロたちのような絆の深め方ができるわけですが、一方で完璧に統率された軍にはなりづらいという弱点もあります。パパたちは遊びがすぎるぜ。

ともかく、ヒロたちは今回で言葉に出さなければ(外部出力しなければ)自分の気持ちは相手に伝わらないと知りました。かつ、相手のことを知りたいと思うのは良い傾向です。