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アニメ感想・考察ブログ

Fairy Gone13話感想

マサラはまっしろ はじまりのいろ

Fairy Gone13話「雨音の罪と白雪の罰」感想

 季節を1つあけて再開されたFairy Gone。作中の時間は進まず、ハイブランツ公の反乱から復興にあたる人々、そして皇帝を救ったレイ・ドーンを讃えるパレードから始まります。

見かけ上の首謀者ハイブランツ公を仕留めたとはいえ、リスカーを逃し、陥落不能と言われた城門を落とされたロンダキア。パレードなんぞしとる場合かーッという感じですが、政府としてはあえて大々的にパレードを行い、「反乱は完全に鎮圧した」という印象を民衆に植え付けたい。そんなところでしょうか。

 

しかし今回のメインはパレードでなく、レイ・ドーンの過去と思想でした。Fairy Goneというタイトルに最もふさわしい人物なんじゃなかろうか?

今回の話を見ると、レイ・ドーンは大局的なものの見方をしていると思います。人間と妖精が相容れないものであると信じ、この世界は人間の手で運営されるべきものという信念を持っています。彼は多分、自らの名声や地位のために動くことがなさそうです。信念を貫くために己すら犠牲にするでしょう。というかそうであってほしい。

レイ・ドーンは、無理矢理この世界に当てはまるなら、キリスト教的人間中心主義と言えます。神は人間に自然を支配せよと命じられた、だから人間は自然を管理する立場にあるのだとする考えです。もちろんこの解釈に異論もあるのですが、今は一旦置いておきます。

そんなレイ・ドーンにとって、わけのわからない妖精なんてものは滅ぼすべきものでしかありません。かつては神々の仕業とされていた季節の移り変わりを解き明かしてしまった私たちのように。まさに妖精は去りぬ、というわけです。

今回の暴動鎮圧に動いたのも、裏に何か企みがあったからではなく単に妖精を自由に使える社会を作ろうとしていたハイブランツ公にムカついただけだったのでしょうか。

 

レイ・ドーンが故郷スーナを焼いたのは妖精滅ぼすべきという信念の他にスーナの人々を悪用されないため、というものがありました。スーナの民は元々妖精原体が見える人たちの寄り合いと説明されましたね。ここらへんで古代都市や黒の書と関わってくるのかしらん。

首相が考えた通り、スーナの人たちをドロテアのような組織にすればそれだけで大きな力になります。妖精が見え、扱える人間が大量に手に入るのです。そして、妖精を活用できることは大きなアドバンテージです。

 

こういう展開はどこかで見たぞ〜と思ってたのですが、「ポケットモンスタースペシャル」ですかね。あれは確かマサラタウンの人間はポケモンと心を通わせる力があるとかだったような。

 

話が逸れました。

それにしたって焼かなくて良かったのではと思いつつ、スーナに問題がなかったかというとそんなことはありません。妖精郷がゆえに周りとの交流を絶っていたのか、共同体としてのシステムは非常に古いものがありました。

例えば強力な妖精を鎮めるために生贄制度を持っているとか、占い師が権力を持っているだとか。

レイ・ドーンの父はそんな中にあって革新的な考えを持っていたようですから、おそらくレイもユルゲンも日頃からスーナの異常性は父から聞かされていたのでしょう。そして戦場へ行っている間に、父はその悪しき風習を防ぐための犠牲となってしまった。

レイ・ドーンが父の死を知ってから領主となったのか、焼き討ちまで故郷に帰らなかったのかはわかりません。前者だった場合、父を殺した故郷に対する恨みが焼き討ちの原因の一端かもしれませんね。そしてそれは妖精滅ぼすべき論にも通じます。

 

レイ・ドーンは妖精を用いるのに良い利用も悪い利用もなく、ただ人間が利用すべきものではないという思想を持っています。つまりドロテアも彼にとっては容認しがたい存在でしょう。

人は妖精と共生できるのか。

ぜひレイ・ドーンには単なる悪役に堕することなく、ドロテアと思想をぶつけ合って欲しいところです。